「菊の香り」(ロレンス)

決して死が二人を分かったのではありません

「菊の香り」(ロレンス/河野一郎訳)
(「百年文庫030 影」)ポプラ社

夕闇が降り、
家路に向かう男たちの影も
まばらになったが、
夫はまだ炭坑から帰らない。
もしかしたらまたいつもの店で
飲んでいるのかも知れない。
そう思いながらも、
子どもたちを寝付かせたあと、
エリザベスは不安に駆られる…。

残念ながら、
その不安は的中してしまうのです。
炭鉱労働者であるエリザベスの夫は、
崩落事故に巻き込まれ
命を落とすのです。
死因は落盤により
退路を断たれたことによる窒息死。
遺体がエリザベスの家に
運び込まれます。

本作品の読みどころはそこからです。
エリザベスは夫の亡骸を見て
どんな思いを抱いたか。
「すでに夫は彼女とは
 まったく無縁の、
 遠い存在になってしまった。
 この男が、自分にとって
 どんなに縁もゆかりもない
 他人だったかが、
 今にしてわかったのだ。
 彼女の子宮には、
 氷のような恐怖が入りこんできた。
 一つの肉体として
 いっしょに生きてきた、
 この赤の他人のせいだった。」

子どもがいて、
さらにお腹の中に子を宿していても、
死んだ夫を他人と感じるこの感覚。
理解できません。
夫婦とはこのようなものなのだろうか?
死んでしまえば他人になるのか?
でも、決して死が
二人を分かったのではありません。

エリザベスの夫は
かなりの飲んだくれ者でした。
結婚し、子どもまでもうけたものの、
お互いの間に通い合うものが
なかったのでしょう。
「二人はただ暗闇で出会い、
 暗闇で戦ったにすぎないのだ。
 彼は遠く離れたところにおり、
 彼女とは
 まったく違った生き方をし、
 まったく違った感じ方を
 していたのだ。」

生きている間に
二人の心はすでに離反していて、
「死」によって
それが判然としてきたと
考えるべきなのでしょう。
「今まで夫を否定してきたのだ。
 それが今になってやっとわかった。
 真実を取り戻してくれた
 死がありがたかった。」

さて、
表題となっている「菊の香り」ですが、
冒頭部分の
エリザベスと子どもたちとの
やりとりの中に現れます。
白い菊の花を「すてきな匂い」と
嬉しがる子どもたちに対し、
「かあさんには匂わないわ。
 とうさんと結婚したときも
 菊の季節、
 あんたの生まれたときも
 菊が咲いていたし…」

突き放します。

死者に菊を手向ける風習は、
日本のみならず
世界各地にあると聞きます。
この菊の香りは、
すでに忍び寄っている
「死」の暗示なのでしょう。

少しずつ明確になる夫の「死」。
「死」が明らかになったあとに
鮮明となる夫との距離感。
読み進めていて、
背筋が寒くなりました。

※我が家はどうだろう?
 …考えたくありません。

(2021.2.18)

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